「アイヌ共有財産訴訟の陳述」

                                秋 辺 得 平

はじめに、私の母なる言葉「アイヌ語」で自己紹介だけさせていただきます。

イラムカラプ テ イツ ショ ロ レー。

 サイパンチョウニシパ、カニ アナクネ アキベトクヘイ クネ ルウエネ。

 アイヌモシリ クシロ ウン ハルトリコタン タ エホラリ アキベフクジエカシ、 エカシ サンテク エカシ イキリ トクヘイ クネ。

 タン チャランケ アン  ワ クコ ハウエ ルスイ、アコロイタク コロカイ。

 クコロ ハウエ ネ ワ シサムイタク パク ノ、ソモ クハウエ アコロイタク。 

 シサムイタク ネ ヤッカ イキ クハウエ クス エヌ ヤン ナ。

 今のアイヌ語は次のような意味です。

 裁判長様。私は秋辺得平と申します。アイヌの国、釧路の春採コタンの、その上手に住んでいた秋辺福治という長老の血筋の者、その祖父系の者です。

 この裁判に出て、私の母語アイヌ語で話したいのですが、上手に話せないので、日本語でさせてください。

 どうか、お聞きください!

 今日の私の陳述は、短い時間ですので母語であるアイヌ語ができず、なぜ日本語で話すのかなど、その理由など、近現代のアイヌの歴史について述べる時間はありませんので、省かせていただきます。

 私が北海道知事に申請した2件のアイヌ共有財産のことについて、とりわけ、色丹島の千島アイヌの共有財産について申請した私の立場と心情、そして共有財産というものに対する私の意見と希望を述べさせていただきます。

 最初に述べたつたないアイヌ語の内容についてですが、私の出自の母方のアイヌの血統について話しました。と言いますのは、私の父は和人であって、しかもアイヌである母を、いわゆる現地妻にしていたことが、私のアイヌとしての帰属意識、いわゆるアイデンティティを決定付ける背景として重要な問題であったからです。

 その私の父というのは、函館の大野町の人で、船大工でした。昭和15年頃に国後島の漁場に女工として出稼ぎに行っていた釧路の秋辺福治の娘ミサとその船大工の成田萬九郎が出会ったのです。

 タラバ蟹の缶詰工場での女工でも、アイヌの女工は、男衆たちからも、和人の女工たちからも様々な差別、仕打ちを受けていて、そういう人達の中にあって、優しく接してくれた船大工の男に好意を寄せて、24歳もの年齢差も越えて一緒こなったのだそうです。しかし、成田萬九郎という男にはすでに函館に妻子があって、秋辺ミサは言わば「現地妻」でした。釧路の春採に二人は居を構え、夫は本妻のところとを半年づつ行ったり来たりの生活ながらも、釧路で秋辺ミサとの間に四人の男の子をもうけました。その二番目が私こと秋辺得平であります。

 四人兄第はだれ一人として父の本家の函館に行ったことがなく、釧路で育ちました。ですから、父方の家族や暮らしとは全くの無縁であり、もっぱら母方のアイヌとしての環境に育ったのです。とは言っても、母の両親、秋辺福治とサヨは、当人同士はアイヌで会話し、カムイノミノの儀式もウポポリムセの歌や踊りも、サコロベやウチャシクマなどの口承文芸も疑いのない立派な母語として、アイヌ語を話す人達でしたが、次の世代の子供や孫には決してアイヌ語を伝えませんでした。「これからは、アイヌ語はいらない。早く日本人になれ」という一念で、ただひたすらに同化政策に順じていたのでした。ただ時折イオマンテの祭りがあって、大勢の人が集い、民族衣装に身をつつんで行事が進行する様を、私も子供ながらに、何か熱いものだけは感じる、という体験を重ねてきました。

 私は昭和18年生れでその誕生は「船の中」でした。琴平丸という、乗組員数名という小さな般で釧路港を母港に、根室から南千島あたりを回航する物資も人も運ぶ船だったようです。当事得撫島の床丹で働いていた成田萬九郎の元へ、臨月のお腹を抱えて秋辺ミサが琴平丸に乗って夫の元へ向かったのですが、得撫島に到着する直前に、海の上で陣痛に見舞われてしまったのだそうです。やむなく、船長が出産を手助けして無事男の子が誕生、それが私でした。船長が自分が取り上げたので、島の名前から一字、「得」と、船の名前から一字「平」の字を取って得平(トクヘイ)と名付けたのです。

 父が国後島や得撫島で船大工や漁夫として島回りの出稼ぎをしていましたが、これら島々との縁は実は母の秋辺ミサのほうが深く、すでに幼い頃から両親の秋辺福治・サヨと共に千島の北はシュムシュ島、バラムシル島から南は色丹島に至るまで、千島中を渡って暮らしていたそうです。というのは、秋辺福治・サヨの夫婦は、釧路のアイヌでありながら、千島の島々で「密猟監視員」の仕事をやっていたのです。

 千島は世界四大漁揚の一つであるばかりか、ラッコやキツネ、テンなどの動物の一大生息地だったそうで、日本政府の農林省は、これらの動物の密猟者の取締まりに手を焼いていたのですが、町が形成されていた大きな島はともかく、中小の人家のない島の管理は大変で、密猟に対しては監視小屋を置いて密猟監視員を常駐させる方法に頼ったようです。農林省に雇われた常駐監視員の仕事についたのが、私の母の両親だったのです。この密猟監視小屋に常駐したのは、釧路あたりからのアイヌが多く、しかも家族単位で小屋暮らしをするのが普通だったそうです。千島列島には、元からの住人であった千島アイヌの人達は居なくなっていました。それは、ほぼ全滅に近い状態も密猟監視員の適任者は北海道から雇わざるを得なかったのです。島には密猟監視小屋以外の人家がなく、銃を所持した

密猟者たちに立ち向かうのは命がけで、密猟船が岸に着くのを見たら、監視員は先ず自分の家族を山へ隠れさせてから仕事についたそうです。

 当時、ヨーロッパなどで珍重され大変な高値がついた毛皮として、ラッコ・銀ギツネ・黒テンなど相当な数が生息していたから、密猟者の横行は止められなかったようです。島での密猟監視の仕事は、いわば孤立無援、しかも、農林省から年に二回の給料と物質の支給があるだけで、危険極まりない仕事でした。大自然の只中での家族での暮らしには、アイヌ民族ならではの漁労採集の知恵を持っ者としての「優れた適格者の仕事人」であればこそ勤まったのでしょう。いずれにしても、千島アイヌに代わって北海道アイヌが、こうして島々を守ったのでした。千島アイヌがはぼ全滅に追い込まれた歴史は、千島列島の漁業資源や毛皮動物のあまりの豊富さが引き金になったようですが、しかし、これらの天然資源を欲しいままにしたかったのは、ロシアと日本という国家だったのです。

 千島アイヌの悲劇と残された共有財産のことを考え合わせると、私たちはその歴史の背景を見過ごすわけにはいかないのです。そもそも日本は、江戸時代からロシアの南下を恐れていました。領土拡大の国家野望は近代においてピークでした。千島では、北千島アイヌがロシア正教のクリスチャンになっていくなどのロシア化に神経を尖らせ、その対策に苦慮してもいたようです。日本とロシアの領土争いであった千島樺太交換条約は決定的に千島アイヌを全滅へと突き落とすことになります。有無を言わさず「ロシアに帰属するか、日本に帰属するか」を迫り、やむなく選んだ日本への帰属は、結局は、南千島の色丹島への強制移住でした。環境の激変と移住生活のストレスから、次々と死んでいきました。

 現在、千島アイヌである人を、ただの一人も探し当てることができません。先日実施された北海道庁のウタリ実態調査というアイヌ調査の項目にも、何−つ千島アイヌのことは記されていません。それでも、色丹島アイヌの共有財産について、名乗り出てくださいと北海道知事はいうのです。私の母はよく言っていました。「千島はどこもみんな宝の島だよ!」と。特にお気に入りは、択捉島の小舟湾で、ここでの楽しく素晴らしかった暮らしの思い出をノートに書き残してもいます。また、両親と共に暮らした10歳頃の島での写真も残っています。色丹島のシヤコタンに千島アイヌの仲間たちを訪ね、しばらく暮らしたこともあったそうです。そのひどい生活のことも聞いたことがあります。

 私、秋辺得平にとって、色丹島旧土人共有財産のことはひとごとではありません。その共有財産は千島に暮らしていたアイヌみんなのものであり、アイヌ民族全体の共有財産であります。北海道知事がこれをまことに狭い範囲に限定して、申請人を特定しようとするのは、まったく理不尽なことです。

 そもそも北海道庁は対アイヌ政策について、国と共にその行為の全ての検証と反省をすべきと思います。

 昭和42年頃まで、道庁は公式にアイヌを「旧土人」呼ばわりしていました。根底には、本件の旧土人共有財産の処分の考え方として、アイヌを無知蒙昧、未開土人としてきた過去のやり方を何ら反省しない、変えようとしない無責任さがあります。今、どこの世界であっても無知蒙昧、未開土人などというものは存在しないことは、今や学者・研究者の世界はおろか、国連の人権関係機関でも、そんなことは有り得ない常識となっています。形式ばかりのやり方こそ「蒙昧」なのではないでしょうか。

 21世紀は先住民族の文化の世紀といわれています。「全て互いに、異なるものとして尊重する」「いかなる生命も、ひとつとして無用なものは無く、生きとし生けるもの皆尊重される」こうした先住民のもつ自然哲学は学ぶべき多くのものを示唆していると思います。人を人として本当に尊重するならば、アイヌの共有財産をどうすペきかは、そもそもアイヌ自身が決めるべきものなのではないでしょうか。

 私は私自身が生きてきたかかわりの場所である得撫島や釧路の春採というアイヌの歴史の場所を念頭に、色丹島の共有財産及び全道教育資金の2件について、知事に対して返還の申請をしました。この共存財産は、知事が管理してきたその責任において、通貨価値の変化に伴う見直しをしてから返還されるべきです。私はこれらの共有財産が正当に返還されたら、これを私することはしません。全て、アイヌ民族全体の教育のための基金として運用されるように積むことを決めています。

 これで私の陳述を終わります。イヤイラギタレ、ありがとうごぎいました。