第4回口頭弁論(2000年4月13日)

          意 見 陳 述

                                  杉 村 満

 私は旭川の杉村満です。

 この裁判は何も好んで引き起こしたものではありません。原告が24名いるとはいえ、裁判に訴えるというのはたいへんなことです。言葉を奪われ過酷な労動、アイヌにはない病をうつされ無念の思いで死んでいった多くのアイヌの心を握りしめて、私の思いを述べさせていただきます。

 この私たちの共有財産は、長い間、私たちアイヌ民族が差別を受けてきたつらい歴史の産物です。ただ、個人に、または代表者に返してそれで終わりという性質のものでは絶対ありません。北海道開発の名のもとに、北海道全体の土地がアイヌを全く無視して和人の手にどんどん渡ったのはご承知の通りです。アイヌの風習は禁止されました。アイヌ語を話すな。入れ墨を入れるな。イオマンテ(熊送り)をするな。死んだ時家を焼くな。和人と同じような名前をつけろ。まだまだきりがありません

 アイヌ民族は生活の中でいっも多くの神々と共に自然の中で生きてきました。アイヌの生活の中には生きていくための掟がありました。それは今の社会の法律です。それを禁止したのです。アイヌをやめろというのは死ねということです。今もその過ちを国も道も正式には認めておりません。

 しかし、アイヌ民族はそれに必ずしも従ったのではありません。アイヌ同士では懐かしくアイヌ語を使い、歌や踊りや、カムイノミは戦時中の貧しい時でも続きました。アイヌの伝統文化は少ないながら残りました。明治から130年以上になりますが、厳しい中でも少しずつ、細々とは生き残り、今、ようやく生き生きとアイヌを出せるようになってきているのです。

 精神文化の禁止はつらいけれど、もっとひどいのは生きていくことです。経済です。動物が取れなくなったのは大打撃でした。川の鮭を取るな、山の木を切るな。そして土地は取られてどんどん山奥へ追われたり。行くところがないのです。生きることさえ大変な状態になったのですから、貧乏などというものではありません。自由に自分が住む大地ではなくなったのですから「アイヌモシリ(アイヌの土地−一人間の世界」という言動がどれ程アイヌに取って重要な言葉か考えてみてください。

 ここで、知事公告番号17の旭川土地問執こついて意見を述へ要求をいたします。

 今回の共有財産の規定がある「北海道旧土人保護法」が廃止になりましたが、それと同時に、旭川には「旭川旧土人保護地処分法」があったのはご存じだと思います。なぜ旭川にだけ特別に別の法律があったのか、その成立と運用の経過を正確に調査してください。

 「北海道旧土人保護法」成立以後、旭川の土地はその保護法にも従わない道庁の一方的な判断に対して我々の祖先が反対したのです。それ以来、明治38年の第2次近文アイヌ地紛争といわれるもの、昭和7年からの「アイヌ地を返せ」の要求、終戦までのアイヌを無視して寄付などと言って処分したこと。終戦後の農地改革の時、と約5年も、その都度、アイヌの要求をまともに開かず狡猾なだましが続いています。

 無償で寄付したとするものとして、旭川師範学校の敷地、近文小学校敷地、道路用地、鉄道用地などがあります。「旧土人保護法」9条では「内務大臣の許可を経て共有者の利

益のために共有財産の処分を」することができるとなっていますが、その「許可」の証拠、共有者の利益のため」の証拠を見せてもいただきたい。

 次に、戦後の昭和23年「旭川市旧土人共有地開放促進委員会」が設立され、会議が持たれましたが、アイヌ民族側は、「自分達の土地を返してほしい、というのが共有者全員の一致した強い希望だ」と何度も発言していますが、小作人などの賃借人に売り渡されたことになっています。アイヌが合意したという証拠を提出するよう、要求いたします。

 旭川の土地の歴史と共有財産については、更に今後の法廷で一一つ−つ問題を明らかにしていく予定ですが、「共有財産」の管理や処分がどうであったのかを、はっきりさせなければ、この裁判の意味がありません。

 明治8年に世を去った川上アイヌの指導者、クーチンコロの言葉です「やがて、この小石一つアイヌの自由にならず」。死後20年足らずで現実となりました。アイヌの言葉に、ピリカ クヤイヌ(真心の意です)があります。法を守るのも過ちをするのも人間、ピリカ クヤイヌ に願いを込めて、そのことを強調して私の陳述を終わります。